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ドナルド・ジャッド 1960-1991
記念講演会抄録

(平成11年9月・第60号掲載記事)


「ドナルド・ジャッドの作品の諸相」

講師:マリアナ・ストックブラント氏(チナティ財団ディレクター)
通訳:小寺由美氏
文責:尾崎佐智子(当館学芸員)

 この記事は、当館で1999年5月22日(土)から7月11日(日)にかけて開催された展覧会「ドナルド・ジャッド1960−1991」の記念講演会の抄録です。この講演会は当館の講堂にて、5月23日(日)に行われました。講師のマリアナ・ストックブラント氏は、1946年ドイツ生まれドイツのクレーフェルト美術館学芸員、ケルンの美術館(クンスト・フェライン)の館長などを経て、1994年よりアメリカ合衆団テキサス州マーファにある、ジャッドが創設した巨大な展示施設「チナティ・フアウンデーション」のディレクターを務め、現在ジャッドの作品を最もよく知る人物の一人として世界的に著名です。なお、この講演会は国際交流基金の後援を受けました。

 なおこのホームページ上の記事には、著作権保護のため写真を掲載しておりませんのでご了承下さい。



 今日ドナルド・ジャッドの話をするにあたり、まず彼の作品、そして自作や他の作家の作品が設置されたニューヨークとマーファの建物の写真を見ていただきたいと思います。最初コメントなしでずっと見ていただこうと思いますのは、まず皆さんの目でジャッドがどのような感受性をもち、また複雑なヴイジョンをもって多くの活動をしていたかを知っていただきたいからです。ドナルド・ジャッドは何よりもまずアーティストでした。しかも建築や家具のデザインにも携わっていました。彼が考えた新しいタイプの美術館では、アートと建築と景観が調和をしていました。また彼は優れた文筆家でもありました。彼の興味の対象は広く、図書室には一万冊もの蔵書があり、文学、哲学から天文学、美術、建築まで、ギリシャ、ロシアそして日本を含めた膨大な蔵書がありました。ジャッドは教育のある博識な文人であり、彼の考え方の基には知識の裏付けがありました。ジャッドは率直に意見を述べるので、時として人の気分を害することもありました。しかしアートとそのインスタレーションに関しては、ゆるぎない基準をもっておりました。新しい考えにもオープンであり、若手を含め他のアーティストの作品に強い関心をもっていました。真摯で見せかけのない活動を強く支持していたと言えます。

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 ドナルド・ジャッドは1928年6月3日にアメリカ合衆国ミズーリー州の小さな町で生まれました。そして5年前の1994年2月に亡くなりました。ジャッドははじめ画家として出発しました。ごく初期の絵画や素描に見られます人物、風景のようなものは50年代には見られなくなります。そして1960年はジャッドの作品にとって転換点となりました。今回の展示は1960年の作品からカヴァーしています。この頃から表面を幾つかの多色エリアに分けるのではなく、表面が一色で覆った面になっています。そしてその表面は均一ではなく、でこぼこであることもありました。もはや形象はなくなり代わりに曲線が端から端まで走っている構成になっています。絵画的なスペースは浅いと同時に無限であるといえます。この作品(図1)では、背景がグレーですが、この背景がオープンであり、そして幾分半透明であるということから、浅いと同時に無限な空間を示していると考えられます。この頃からジャッドは、空間をより具体的に使うようになりました。例えば、木に線を彫り込むですとか、絵具に砂を混ぜて、作品に表面の実質と存在感を与える、あるいはパンの焼き型を埋め込んで深さとプロポーションを決めるという作品(図2)を作りました。そしてスライドにありますように、表面に水平の切り込みを入れて、中の黒いスペースを見せるとか、あるいはアルミの三角の物体が表面から飛び出すような作品、こういった絵画作品を通じてジャッドは3次元の世界へと移っていくことになります。1962年かジャッドは自立した3次元の作品を作るようになりました。今、何枚かのスライドで見ていただきました作品は、先程の絵画の例にもありましたように、彼が見つけてきた既存の物体がきっかけとなって作られたものです。この場合(図3)は、直角に曲がった黒のパイフです。パイフの両端を2つのパネルの中央に置くということを先に決めた時点で、配置は既に決まっていたと考えられます。まずパイフの短い方が一方のパネルの幅を決める、長い方が他方のパネルの幅を決める、そうすると直角になっていますので、その2枚の配置も必然的に決まるという作品です。この作品は木にライト・カドミウム・レッドの油彩が施されています。この最初の自立型の作品からジャッドに多くの可能性が開かれました。3次元だということは現実の空間を占める、すなわち定義されかつオープンな空間を占めるということです。この定義されていてしかもオープンな空間というのは、その後も彼の生涯にわたる考え方のなかで非常に重要なポイントとなりました。ジャッドは作品やその一部を隠したくないと考えていました。オープンであることと透明であるということ、これは彼の哲学的な思索の結果であると同時に政治的な姿勢であったと考えられます。この作品のもう一つ重要な側面は、その構造がパイプといった既存のもので予め決定されていることです。既にジャツドは絵画の時代から伝統的な構造を抜け出したいと考えていました。すなわち構図以外のもので決定したいと考えていました。欧米の伝統的な絵画において構図は、大きな要素と副要素のバランスをとって、調和や秩序の有無を表現するというものです。すなわち前景と背景に何を置くのか、中央を深くして暗くする、周囲はぼんやり明るくするということを画家が決めることが出来ます。これが構図による決定ということなのですが、ジャッドはこういった決定をせずに、そうではなくて既存の秩序を自分の作品にあてはめようとしました。先程の黒い絵画ではパン焼きの型がプロポーションを決めていました。そしてこの作品では黒のパイプがパネルの配置を決めています。また他の作品でも見られますように、数字を使ったり、比例を使ったりしました。同じこの作品で3点目に重要な点は色使いです。ライト・カドミウム・レッドという色をジャッドは1960年から1964年まで好んで使いました。何故、ライト・カドミウム・レッドを使うのかということを71年のジョン・コプランとのインタヴューで聞かれて次のようにジャッドは答えています。「この色が好きなのは、ライト・カドミウム・レッドの特質が好きなのだ。3次元の作品に相応しい価値を持っている。もし黒など暗い色で塗れば輪郭が分からなくなるし、白に塗れば小さく見えて純粋主義的になってしまう。グレーのバルールでなければ赤がいい。赤であれば唯一対象をシャープに輪郭と角度をはっきりと定義できる。同じカドミウム・レッドでもミディアムとかディープになればフォルムが曖昧になってくる。だからこの色がいいのだ。フォルムを明確に定義できるからだ。」

 このように伝統的な絵画からオブジェの取り込み、そして自立した3次元作品へジャッドの作品は変わっていきました。そして1964年に新たに大きな変化が起こります。この年から工場制作を行うようになったということです。64年の末頃までには完全に工場制作に切り替えて職人に制作を依頼するようになりました。何故ハンドメイドから工場制作に切り替えたかということについて、金属とプレキシグラスを使いたかったからだと彼は答えています。さらに何故、金属を使うのかということについて、色を塗らずに物質国有の色を使えるからだと答えています。彼の言葉を引用しますと、「亜鉛メッキの鉄を使うのは色を塗らなくてもいいからだ。最初は金属に赤を塗っていた。今でも素材の色の幅が不十分な時には塗っているけれども。何でも色だと思う。グレーも色のうちだと思う。だけどもいつでもグレーを使うわけにもいかないし、金属というのはたいていグレーだ。陽極処理というのも金属に色を付けられるからいい可能性だと思う。要は金属を使うのは作品から曖昧な要素を減らし、厳格に定義できるからだ」と述べています。このようにジャッドが目指していたのは、明瞭さでした。すなわち、部分をさらけ出し見えるようにするということでした。彼はヴォリュームを定義する際には、閉じて見えない、知覚されないことがないように定義したかったわけであります。しかも輪郭というのは線のように薄くしたい。そして内部の空間の広がりをもたせたいと考えていました。金属に次いで彼が好んだのがプレキシグラスです。ジョン・コプランとのインタヴューで何故プレキシグラスを使うのかと聞かれた時にジャッドはこう答えました。「プレキシグラスは硬質で単層の表面をもっていて、色が素材に組み込まれている。プレキシグラスを使うと内部が露呈される。ヴォリュームが開けるのだ。ヴォリュームがさらけ出されて内部が見える。これで脱神秘化できるし、曖昧さを減らすことができる」と述べています。今回、スタックの作品(図4)が3つ展示されていますが、プレキシグラスを使うことで視覚的に各パーツをつなげることがきます。そして色が反射し、箱と箱との空間を通過していきます。そしてユニットの内部と周囲に色が輝くことになります。ジャッドの作品において、オープンでしかも定義された空間というのが、このようにプレキシグラスを使うことでしばしば表現されています。

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 さて、ここからジャッドの生活の別の面に触れたいと思います。すなわち、ジャッドがどのようにアートをインスタレーションし、アートとともに暮らしたかということです。彼はアートにも建築にも関心がありましたが、アーティストとして過ごしました。これはアートの方がよりクリエイティヴな自由があると考えたからです。しかしジャッドはアートをその周囲の空間から切り離して見ることもできませんでした。そして彼は既存のスペース、例えばギャラリーや美術館や収集家の住宅に失望を感じていました。そしてアートの明確なニーズに相応しい生活と仕事の場を自分で形作るようになってきました。

 これは1968年に彼が取得したニューヨークにある5階建てのビル(図5)で、内部に広いスペースをもっています。各階それぞれに目的があり(台所、スタジオ、寝室など)、そしてこのスペースに自作や他の作家の作品を恒久的に展示しようと考えました。 1階は最初スタジオだったのですが、後にギャラリーのようなスペースになり、彼はここに一時的に自作を置いてチェックをしたりしました。また時として他の作家の作品の展示も行われました。2階が台所、食堂、居間です。3階は彼の仕事場で2つの大きな作品が置かれています。4階は客間でフランク・ステラの絵画、ダン・フレイヴィンの作品、ジャッドの家具などが置かれています。5隋が寝室で一番素晴らしい部屋だといえると思います。ダン・フレイヴィンの光のバリヤですとか、ジョン・チェンバレンやクレス・オルデンバーグの作品、そしてジャッド自身の初期の作品が2点あります。1973年にジャッドは2棟の大きな旧倉庫をテキサス州マーファで購入し、そこで60年代からの自分の作品のインスタレーション(図6)を始めました。図書室(図7)を作って、自分で棚や家具をデザインしました。そしてそこが狭くなりますと横に部屋を増やしたわけであります。ここでも棚は自分でデザインし、ダン・フレイヴィンと自分の作品が置かれています。

 ジャッドは既存の建物の美しさ、そして倉庫や工場といった明晰な構造をよく理解していたと思います。そして彼は建築に対する自分の考え方にあわせて建物を改修しました。改修するというのは通常、内部をきれいにする、やわらかい光を取り込む、一方向の軸にドアや窓を付けるという作業でした。そして床と壁をはっきりと分けて定義しました。こうした工業用の建物を、生活や、アートのインスタレーションの空間にするというのがジャッドのライフ・スタイルそのものになりました。そしてその後、多くの美術館やギャラリーが彼のアプローチに影響されることになります。例えばニューヨークにあるDIAアート・センターですが、この場合にはチェルシー地区にある古い工場を改修しています。そして現在ロンドンのテイト・ギャラリーが拡張するということなのですが、これは古い大きな発電所を使うそうであります。何故新しい建物よりも古い建物の方がいいのか、議論すると 複雑になりますが、どうも現代の建築に対する不信感があるように考えられます。少なくとも多くのアーティストはそう考えているようです。テイト・ギャラリーが拡張計画を決める際にアーティストに、どんなタイプのスペースに自分の作品を展示して欲しいと思うか意見を聞いたところ、大半のアーティストがこういったタイプの既存の建物がいいと答えたそうです。

 ニューヨークの建物でもそうだったのですが、マーファにおける彼の住居でも生活と仕事とアートのインスタレーションが一体化しています。ドナルド・ジャッドはアートをよりよく理解するためには、アートとともに生活しなければいけないと考えていました。すなわちアートと生活を分けるのではなく統合したいと考えていました。ですからアートを設置した空間には、いつもベッドやベンチ、テーブルがあり、日常生活にアートが組み込まれていました。

 ジャッドは最初、テキサス州マーフアに夏を過ごすための場所を求めて立ち寄りました。まず家を借り、そして2棟の大きな倉庫を取得し、ここに住むようになりました。彼はマーファのむき出しの広大な景観と乾いた気候、住民の少なさが気に入ったようです。ジャッドはここにたくさんの作品を設置したい、ニューヨークのビルに入らない分も置きたいと考えていました。また彼はこの頃、美術館やギャラリーでの作品の展示の仕方に批判的になっていました。したがってジャッドは恒久展示を行って、自分の死後も自らの意図をずっと残したいと考えました。それまでに見た多くのインスタレーションやアートの取り扱い方が不適切であったので、彼は美術館の学芸員に対して不信感を抱くようになっていたからです。彼は作品を作家の意図に忠実に見せたいと考えていました。彼は次のように書いています。「どこかに現代美術の一部は芸術とその文脈の意図するとおりに存在すべきである。ちょうどプラチナ・イリジウム製のメートル原器が巻き尺での測定の誤差を補正するように、この時代と場所の芸術のための厳格な基準がいる。」

 ジャッドは自分の住まいをマンサナ・デ・チナティ(図8)と呼んでいました。マンサナはチナティ財団を除くと、彼が計画したなかでは最大かつ最も複雑なスペースとなっています。チナティ財団の考え方もこのマンサナから生まれたと考えられます。これ自体一つの小宇宙となっています。そしてここが大きな恒久インスタレーションができる場所になりました。それにはマーフアが理想的な場所でした。というのも広々とした何もない空間が広がり、植生が低く、また一面に草地、地面、山、空を見ることができます。しかも旧駐屯地の建物が多く残されていました。

 ジャッドが意図していたのは、普通の美術館ではなく、彼が言うように普通の美術館ではできないような、少数の作家による大きな作品を実現できる場を作ることでした。しかもそこで作られたものは、恒久的にインスタレーションされるということです。大きいということ、そして恒久的であるということがジャッドにとって非常に重要なポイントで、チナティ財団において彼はその両方を実現したことになります。ここのコレクションの重要な作品として2つのグループの大きな作品があります。まず最初が2棟の旧大砲格納庫に入つております100ピースのアルミの作品(図9)です。もう一群は15体のコンクリートの作品(図10)で、これは1kmにわたって設置されています。いずれもジャッドにとって最大の作品となっています。

 コンクリートの作品はくっきりとした形をもってはいますが、風景と微妙に解け合っています。通常は財団の所有地の真ん中に小高いところがあってそこから見るわけですが、そうするとずっと遠くの方に水平線上に平行に並んでおり、近づいてはじめてそれが圧倒されるような大きさをもっていることがわかります。コンクリートはどのユニットも同じ外形で2.5×2.5×5mです。ヴォリュームが開いていたり閉じていたり、またヴァリエーションが見られます。シンプルなヴァリエ−ションですが非常にパワフルな視覚的効果をもたらし、ジャッドは空間を巧みに支配していたといえます。

 そしてそのすぐ近くに2棟の旧大砲格納庫があり、そのなかに100点のアルミの作品が設置されています。これらの作品はジャッドのキャリアにとって一つのクライマックスであったと考えられます。作品そのものは、建築、光、あるいは周囲の自然、そして窓から見えるコンクリートの作品と微妙かつ明確に融け合っています。間違いなく今世紀の傑作の−つだと思います。私はこのインスタレーションを見れば、ジャッドの作品を最も明確に理解できると確信しています。彼の作品には真鍮製の床置きの作品ですとか、スタック、プログレッションなど色々ありますが、そういった作品に暗い部屋のなかでスポットライトをあてて、どうやってわかるというのでしょうか。表面に反射する光、亜鉛メッキ鉄と陽極処理したアルミの微妙な組み合わせ、あるいはプレキシグラスがもっている影、こういったものがそのような環境のなかで果たしてわかるのだろうかと疑問に思います。実際にマーファでアルミニウム・ピースの問を歩くとすぐに分かるのは、ジャッドの作品にとって陽の光が非常に大切だということです。各ピースが輝き、融け合い、反射するのでまるでガラスか鏡のように非物質的に見えてきます。またヴォリュームも暗いものがあったり、光でいっぱいのものがあったり、光から闇までのグラデーションを示すものもあります。そして早朝や夕刻、黄金色の陽の光を受けると、作品全体が炎のように輝いてきます。

 この大きな建物はアリーナ(図11)と呼ばれています。かつては運動場、馬術場として使われていた建物で、ジャッドはまず内部をきれいにしました。すなわち床にあった木や砂を取り出したのです。そうするとセメントのストライプが出てきました。それをそのままにしておいて、そこに小石を敷き詰め、両端にセメントを打って歩きやすくしました。あと回転ドアを付け、台所を作り、食事のスペースを設け、そこに自分の家具を置きました。台所の後ろ側には中庭を作りそこには小さなプールもあり、ジャッドの家具もあります。そしてこの建物は年中ディナーの場所として使われ、毎年10月にはオープン・ハウスとして世界中から何百人も招いてお祝いをしていますが、その時にもこの場所を使っています。

 ほかにもインスタレーションがあります。ロシアの作家イリヤ・カバコフの作品「スクール」(図12)。クレス・オルデンバーグとクーゼ・ヴァン・ブリュッゲンによる戸外の彫刻。そしてカール・アンドレのポエムもあります。またチナティでは一時的な展示を半年から一年かけて行っていますし、若い作家を対象とした滞在制作のプログラムもあり、学生をインターンとして大学から招いたりもしています。さらに地元の学生向けに夏のセミナーを行ったり、年2回、美術関連のシンポジウムも主催しています。現在、チナティでは既存の建物を使ったダン・フレイヴィンのインスタレーションを準備しています。6つの建物を使い、2000年の秋にオープンする予定です。ダン・フレイヴィンにとっては最大の作品になりますし、そしてジャッドのインスタレーションと見事に補完しあうことになると思います。

 ドナルド・ジャッドについて語ることはまだまだあります。しかし、今日の話を通じて皆さんがジャッドに興嚇を持って下きれば目的は達したと思っています。彼の様々な活動、美術、家具、建築、著作、インスタレーション、それぞれが何冊もの学術書に匹敵すると思います。ジャッドは巨人であり、全てを追い求め、豊かで革新的で複雑な作品群を残しました。

 辛抱強く私の話を聞いて下さいました参加者の皆様、ありがとうございました。



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