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速水 御舟(はやみ・ぎょしゅう)
明治27年(1894)−昭和10年(1935)
「菊花図」 4曲1双
金地著色・屏風装
(各) 縦93.8cm × 横182.4cm
大正10年(1921)制作
第8回院展 出品作
(株)滋賀銀行寄託作品
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速水御舟が大正10年の第8回院展に出品した、4曲1双の小屏風で、御舟の細密画時代の最後に飾る作品です。総金地の画面に、すでに盛りを過ぎたかと思われる菊の、大きく花を開いた群れを描いています。その細密描写は執拗なばかりで、大輪の菊は美しさを通り越して、まるで無気味な生き物に見えるほどです。ですがこの作品においては、三角形の安定した構図が画面に秩序を与えており、細密描写よりもむしろ安定した構図への志向が画面の中に見て取れ、後の作品への展開をほのめかしています。いずれにしても、この作品において頂点に達した御舟の細密描写は、まさに驚嘆の一言に尽きます。なお、この作品には下地となった一冊の写生帳が残されており、現在は当館の収蔵となっていますが、そのスケッチの中にも極めて執拗な描写になるものが存在しています。
なお本作は、(株)滋賀銀行からの寄託作品です。
速水御舟について:
速水御舟は明治27年(1894)、東京浅草に蒔田(まきた)良三郎の次男として生まれました。本名は栄一。明治41年(1908)に松本楓湖(ふうこ)が主宰する安雅堂画塾に入門し、ここで中国の宋・元時代の古画や、大和絵、琳派などの作品の模写に励みました。明治42年(1909)、師から「禾湖(ようこ)」という雅号をうけました。のち「浩然」とも号しています。明治43年(1910)の第10回筆画会に「小春」を初出品し、明治44年(1911)には今村紫紅(しこう)らの紅児会(こうじかい)に入っています。大正3年(1914)に雅号を「御舟」と改め、これを機に母方の速水姓を名のることにしました。この年10月の第1回再興院展に出品した「近村」が、日本美術院の重鎮である横山大観や下村観山らに激賞され、これが機で日本美術院の同人に推挙されることになりました。7年(1918)の第5回院展には本作「洛北修学院村」を出品しており、制作意欲は高まるばかりでしたが、大正8年(1919)、帰京中に浅草で市電にひかれて、左足を切断するという不幸な事故に遭いました。しかし大正9年(1920)の第7回院展には「比叡山」「京の舞妓」の二点を出品しており、その極端なまでの細密描写が広く話題となりました。大正10年(1921)の第8回院展には「菊花図」(滋賀県立近代美術館寄託)「渓泉二図」を出品。その後「炎舞」「翠苔緑芝(すいたいりょくし)」「名樹散椿(めいじゅちりつばき)」など、多くの秀作を次々と生み出しましたが、昭和10年(1935)3月、腸チフスのため43歳の若さで惜しまれながら急逝しました。
御舟は制作のかたわら参禅修養を行なうなど、強い意志と努力によって新境地を開いた大正時代を代表する日本画家であり、その影響は今日にまで及んでいます。