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2001年7月の作品
 下村 観山「鵜鴎図」(右隻)


下村 観山(しもむら・かんざん)
明治6年(1873)一昭和5年(1930)

「鵜鴎図(うおうず) 六曲屏風一双のうち 右隻

金地著色・六曲屏風一双
(各)縦168.0cm × 横363.0cm
明治34年(1901)制作

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 六曲屏風の右隻にウの群れを、左隻にカモメの群れを配した作品で、波しぶきや鳥たちの写実的な描写の巧みさと、金地屏風の装飾性との融合が見事な作品です。岩に付着した飛沫を、たらし込みの手法で表現しているところも秀逸です。輪郭線を使わずに描く「朦朧(もうろう)体」が全盛を極めた当時の日本美術院において、あえて琳派の装飾性を積極的に取り入れた意欲作です。この作品は安田靫彦(ゆきひこ)の随筆「観山先生の作品」(「現代の眼11」昭和30年掲載。のちび安田靫彦著『画創』昭和57年に再録)に「伊叟古話」とともに「最も創意に富み、独自の格調を示したもの」と絶賛されています。この作品自体は、『日本美術』誌33号(明治34年)に掲載されていたもので、もともと北海道で保存されていたらしいのですが、当時の日本美術院は北海道でもよく展覧会を開催していましたから、おそらくそのゆかりもあったのでしょう。なお菱田春草の「王昭君」などの作品も、北海道とゆかりがあります。

下村観山について:
 下村観山(しもむら・かんざん)は、明治6年(1873)4月、和歌山市に下村豊次郎の三男として生まれました。本名は晴三郎。明治14年(1881)に一家で上京し、この年観山は、祖父の友人の紹介で狩野芳崖(かのう・ほうがい)に師事し、さらに19年(1886)には芳崖の勧めで橋本雅邦(がほう)に師事しました。明治22年(1889)に東京美術学校へ入学し、26年(1893)に卒業。卒業制作に「熊野観花」を描いて非凡さを示し、卒業と同時に母校の助教授となりました。また明治29年(1896)の「日本絵画協会第1回共進会」に「仏誕」を出品して、銀牌を受賞しています。
 明治31年(1898)、東京美術学校騒動が起こって岡倉天心が辞職すると、観山は雅邦、横山大観、菱田春草らとともに連名辞職して、新たに在野の日本画団体「日本美術院」を創設しました。10月の「日本美術院第1回連合絵画共進会」に「闍維」を出品。のちにこれら、輪郭線を廃し色彩主体で表された作品群は「朦朧(もうろう)体」と呼ばれ悪評を受けましたが、観山はやがて琳派を徹底研究して朦朧体から脱却し、東京美術学校への復職を果たしました。
 日本美術院の苦悩期であった茨城県の五浦(いずら)への移転から再興にいたるまでの期間、観山は横山大観らと行動をともにし、大正6年(1917)には帝室技芸員、8年には帝国美術院会員に任命されるもののともに辞退し、あくまで在野精神を貫きました。大観、春草の急進的な革新派に比べ、しばしば旧態とみなされることの多かった観山ですが、「木の間の秋」「大原御幸」「白狐」「弱法師」など多くの秀作を発表しています。昭和5年(1930)に没しました。