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2001年6月の作品
 山元 春挙「しぐれ来る瀞峡」


山元 春挙(やまもと・しゅんきょ)
明治4年(1871)一昭和8年(1933)

「しぐれ来る瀞峡(とろきょう)」 1幅

絹本著色・軸装
縦185.0cm × 横100.0cm
昭和6年(1931)制作
第12回帝展 出品作

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 昨年7月に紹介した「高嶽爽気図」と同様、スケールの大きな風景画を得意とした春挙の代表的な作例です。昭和6年の第12回帝展に出品されましたが、春挙にとってはこの作品が最後の帝展出品となりました。瀞峡(とろきょう)は和歌山県と三重県の県境を流れる峡谷で、景勝地として有名です。本作品は昭和2年5月に春挙が行った、紀伊半島南部へのスケッチ旅行の成果にもとづいた作品であり、墨による筆使い、純化された透明感あふれる色彩は、最盛期の春挙独特の様式を示しています。この美しい画面構成は、まさしく春挙芸術の究極の姿であると言えましょう。

山元春挙について:
 山元春挙は明治4年(1871)、滋賀県大津市に生まれました。明治16年(1883)に京都円山派の画家・野村文挙(ぶんきょ)に就いて日本画を学び、明治19年(1886)からは同じく円山派の森寛斎(かんさい)に師事しました。明治24年(1891)、盟友の竹内栖鳳(せいほう)らとともに日本青年絵画共進会を結成して、日本画の近代化に努力しました。その名声は徐々に高まってゆき、第1回文展の審査員となるなど、名実ともに京都画壇を代表する一人として多方面で活躍しました。大正6年(1917)には、帝室技芸員となっています。また、画塾・早苗会を主宰して後進の育成にも力を注ぎ、ここからは門下生として、川村曼舟(まんしゅう)、庄田鶴友(かくゆう)などの優れた人材が輩出しています。昭和8年に没しました。
 春挙の作品の神髄は、なんといっても雄大かつ美しく構成された、風景画作品の中にあります。写生を重んじる円山派の技法を用いながら、写真に興味を示しての、西洋的な意味での写実の精神を生かした風景画です。そこには自然の厳しさや偉大さを意識した、東洋的な深い「精神性」もみなぎっています。また一方で、春挙は禅を深く学んでおり、「法塵一掃(ほうじんいっそう)」「捨骼拾髄(しゃかくしゅうずい)」など、都会的な感覚による禅画の大作も描いています。