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2001年4月の作品
 森 寛斎「春秋花鳥図」より右隻


春秋花鳥図森 寛斎(もり・かんさい)
文化11年(1814)一明治27年(1894)

「春秋花鳥図」より右隻

屏風装6曲1双のうち  金地著色
(各)縦166.5cm × 横372.0cm
明治21年(1888)制作

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 山元春挙(大津市出身の京都画壇の巨匠)の師である森寛斎(もり・かんさい)が、明治21年に描いた、6曲1双(右隻と左隻の2枚組)の大作屏風です。右隻には桜とキジのつがい、左隻には紅葉とシジュウカラの群れが描かれています。両隻ともに、鮮やかな色彩感が盛り込まれており、たらし込みに近い手法で立体的な表現がなされている点など、従来の寛斎のイメージを根底から覆すような、近代的感覚溢れる作品になっています。その制作年である明治21年という年に注目するならば、もしかしたら明治19年に京都円山で行われたアーネスト・フェノロサの講演において、フェノロサが京都画壇の画家たちに対して流派に拘泥することを戒め、また色彩についての新しい考えなどを述べたことを踏まえての、寛斎の反応(あるいは挑戦)であったとも推測されるでしょう。いずれにしても、寛斎の作品群の中では極めて独創的な一点であることは間違いありません。

森 寛斎について:
 森寛斎は文化11年(1814)、現在の山口県萩市に、毛利家の家臣の子として生まれました。天保2年(1831)、絵の道を志して大阪の森徹山に入門し、のち京都で画家として活躍しましたが、幕末の動乱期には長州藩の志士として奔走しました。明治維新後は様々な博覧会などで活躍し、のち京都画壇の「如雲社」を主宰、また京都府画学校の教師を勤めました。明治19年(1886)には、新しく設立された京都青年絵画研究会の会長となり、明治23年(1890)には帝室技芸員となっています。
 寛斎は、京都・円山四条派の一派である森派の画家であり、その作風・技法ともに伝統的な円山四条派の影響下にあります。ですが明治維新という時代をまたいで生きた画家である以上、伝統的な絵画だけでなく、当然のように西洋画の影響も随所に受けています。ただし思想的には西洋画の写実主義よりも、円山派の写生にもとづく作風を重視しているように思われます。まさに近代絵画への過渡期を生きた、近世と近代との橋渡し的位置にいる画家であったと言えましょう。明治27年(1894)、京都にて没しました。