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2001年12月の作品
 幸野 楳嶺「鳴門山水図」


鳴門山水図幸野 楳嶺(こうの・ばいれい)
弘化元年(1844)−明治28年(1895)

「鳴門山水図」

一幅  絹本著色
縦44.5cm × 横83.3cm  明治19年(1886)
製作

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 うず潮で有名な徳島県の鳴門を、写生に基づいて絵にしたものです。本図には、明治一九年冬の制作を示すサインが入っていますが、この年の後半は楳嶺にとって、かなり慌しい日々であったようです。6月に楳嶺とその仲間たちは、京都・祇園の中村楼において、京都の美術界を振興させ世界にのり出してゆくべきことを説いたフェノロサの講演を開きました。おそらくこの影響もあって、8月から9月にかけて、楳嶺たちは画派にこだわることない審査をめざし、公平な目で後進の育成をはかろうと「京都青年絵画研究会」を設立しました。ところが門下の若い画家が青年絵画研究会に奪われると誤解した、保守的な指導層の猛反対に会い、会の設立に私財を使い尽くしていた楳嶺は窮地に追い込まれ、10月に京都を離れて名古屋に移住することになりました。この一件で、楳嶺が物心両面で困ばいしたことは想像に難くありません。本図は、この名古屋移住に前後して描かれた作品です。この作品を下絵「鳴門塞潮真景」(当館蔵)と比較してみると、下絵から本画にする際に真景から島の位置を少しずらし、絵画作品の構図として均整が取れるように図っていることがわかります。またこの下絵では、ずらした島の位置が本画と同じ場所に墨線でたどられていたり、地名が注記されているなど、楳嶺の作画手法を知る上でも貴重な資料となっています。傷心の楳嶺は原点に立ち帰り、無心に写生し制作することで、心機の一転をはかろうとしたのでしょうか。楳嶺の風景画の中でも、このように俯瞰して、かなり遠景までを望んだ真景図というのは珍しい存在です。なお後に楳嶺は、ドイツ、パパリア美術展覧会に「鳴門の景色」と題した作品を出品してます。

幸野 楳嶺について:
 明治初頭に活躍した京都画壇の日本画家・幸野楳嶺(こうの・ばいれい)は、幕末の弘化元年(1844)、京都新町四条に生まれました。本姓は安田。後に父の実家の姓、幸野を名のります。嘉永5年(1852)9歳の時、円山派の中島来章に師事し、梅嶺と号しました。明治4年(1871)、師の許可を得て28歳で四条派の塩川文麟のもとへ移り、号を楳嶺と改めました。明治に入ってからは京都府画学校の設立や、京都青年絵画研究会の開催、京都美術協会の設立などに協力し、また『美術叢書』の発行を後援するなど、近代京都画壇草創期の重鎮のひとりとして、後進の指導、日本画の発展に力を尽くしました。明治23(1890)年、第3回内国勧業博覧会の審査員となり、明治26年(1893)には帝室技芸貝に任ぜられています。明治28年(1895)2月2日に死去しました。楳嶺は、京都円山派の祖・円山応挙の写生主義と、南画(文人画)の精神主義の調和をめざした画家であり、その代表作には「帝釈試三獣図」「秋日田家図」などがあります。彼の門下からは、竹内栖鳳や菊池芳文、上村松園、都路華香など、のち京都画壇の中心となって活躍した画家を多く輩出しています。なお当館は、平成2年(1990)4月「幸野楳嶺とその流派展」を開催し、楳嶺を取り巻く近代京都画壇の流れを検証いたしました。