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北野 恒富(きたの・つねとみ)
明治13年(1880)一昭和22年(1947)
「鏡の前」
絹本著色・額装
縦185.6cm×横112.0cm
大正4年(1915)制作
第2回院展出品作
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大正4年(1915)の第2回院展に出品されたこの作品は、同年の第9回文展に出品された「暖か」と対になる作品であり、どちらも当時の恒富の、デカダン(退廃的)な雰囲気が最高潮に達した時期の作品です。「暖か」を文展最後の出品作とし、以降、恒富は院展系の画家となりました。着物を着崩してくつろぐ女性を描いた「暖か」は赤を、姿見を前に身だしなみを整える女性を鏡の方向から描いた「鏡の前」は黒を基調としており、どちらも私室のしどけない姿の女性像をありのままに描いたものです。これらは、当時の格調高い院展の雰囲気の中では特異な傾向を示していましたが、これは竹久夢二のイラストの流行に代表される、当時(大正時代)の世相を反映した表現でもあったのです。事実、「暖か」に対する評論として、「大抵の人が此種類のものを描くと単に卑猥な挑発的気分を感ぜしむるのみであるが、此画のやうに肉的の感じの濃厚に漂ってゐるにも係らず、画品の卑しからざるは、題材に対する充分の理解がなくては出来ないことである。細部を評すれば女の衿頸の肉附きと、背景の襖の元禄人物に驚ろくべき技能を発揮してゐる」(男眼鏡『[日本及日本人』大正4年10月号)との好評と、「夢二・与平趣味とも連絡のある広告絵風(石版刷の、呉服屋などの)の顔と赤い長襦袢とは甚だ挑発的である」(石井柏亭『太陽』大正4年11月号)などの竹久夢二調への傾倒の批判の、双方が寄せられています。これ以後の恒富は、院展の精神主義・古典主義の洗礼を受けながら、そのデカダンな興趣を、歴史上の人物などを題材に格調化してゆく方向に向かいました。
北野 恒富について:
北野恒富は明治13年(1880)、金沢に生まれました。本名は富太郎。若くして木版書画の版下を学び、明治30年(1897)大阪へ出て、木版彫り師・伊勢庄太郎のもとで版下を描く修行を重ねました。翌年、浮世絵師・月岡芳年の弟子であった稲野年恒に師事し、江戸浮世絵の伝統を受け継ぎました。その後は新聞社に入り、もっぱら挿絵で評判を取りました。明治44年(1911)の文展(文部省美術展覧会)に、写実的な美人風俗画を出品して受賞しました。同じ年、土田麦僊や小野竹喬らが結成した「仮面会(ル・マスク)」に参加します。また、再興日本美術院が主宰する大正3年(1914)の第1回院展に「願の糸」を出品して入選。翌大正4年(1915)の第2回院展に本作「鏡の前」が続いて入選しました。それ以後も大阪にありながら、再興院展に出品を重ね、大正6年(1917)に日本美術院同人に推挙されました。「鏡の前」や同年の第9回文展に出品した「暖か」に見られるような、時代を反映した退廃的でしどけない風情の美人画は院展の中では特異な存在でしたが、大正の末年頃からは、うって変わって清澄で明快な表現の美人画を描くようになりました。画塾・白樺社を主宰して大阪画壇を主導しましたが、昭和22年(1947)に没しました。