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2000年10月の作品
 野村 文挙「嵐山・高雄図」


嵐山・高雄図野村 文挙(のむら・ぶんきょ)
安政元年(1854)一明治44年(1911)

「嵐山・高雄図」(らんざん・たかおず)
より「高雄図」

屏風装6曲1双のうち左隻  金地著色
縦154.0cm × 横349.0cm
明治28年(1895)頃制作

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 六曲屏風に、嵐山と高雄山という京都の二大景勝地を描いた大作です。右隻には、桜花が爛漫と咲く春の嵐山風景を、左隻には紅葉が鮮やかな秋の高雄の風景を、一面に金箔を貼った金地の上に鮮やかな色彩を駆使して描き込んでいます。特に図版で示した「高雄図」は、金地と紅葉の鮮やかな色彩の対比が見る者を圧倒します。京派の上品な感性と、奇抜な対照の面白さを兼ね備えた「真景図」(本物そっくりに描こうとした風景画)です。記録によると文挙は、明治28年(1895)の第4回内国勧業博覧会に「嵐山春景・高雄秋景」と題した作品を出品して「妙技3等賞」に輝いていますが、この「嵐山・高雄図」も、これに関わる作品だろうと推測されています。

野村 文挙について:
 野村文挙は安政元年(1854)、神崎郡北庄(現在の滋賀県五個荘町宮荘)の近江商人・野村宇三郎の長男として、京都四条鳥丸の長刀鉾町に生まれました。幼名は松太郎。字(あざな)は子融。画人の雅号としては、文挙のほかに右泉、福吉翁などとも号しました。
 明治3年(1870)、14歳の文挙は浮世絵師・梅川東挙の門に入り、のち、四条派の画家・塩川文麟(1801−1877)に師事して円山四条派の画法を学びました。しかし明治維新期の絵画の風潮は、写生を重んじる格調高い円山・四条派よりも、自由闊達に描く文人画が全盛を極めた時代であり、世に認められない文挙は一時鬱屈した思いで、郷里神崎郡北庄に住む祖父・八郎兵衛のもとに閑居していたこともありました。数年間を湖東で過ごした後、再び京都に出て作画に精進しました。明治10年代になると、さすがに写生画に対する認識も深まり、明治10年(1877)に京都府画学校が開校されると、文挙はそこで教鞭を取ることになりました。「写生画復興」の旗印のもと、文挙は相ついで開催された展覧会に次々と大作を出品して受賞を重ね、画家としての地位を確かなものとしてゆきました。そのうえでさらに、森寛斎(1814−1894)のもとで円山派の真髄を極めようともしました。明治22年(1889)に上京して学習院の教授となった文挙は、そこで美術教育にたずさわる一方、ここでも秀作を次々と発表し続けました。明治40年(1907)に文展(文部省美術展覧会)が創設されると、2回展から審査員をつとめましたが、明治44年1月24日、58歳の生涯を閉じました。
 文挙は、京都の伝統的な円山・四条派の写生画に、写実を重んじる近代的描法を加味した風景画作品を得意としました。そこには江戸時代後期の写生画を脱皮した『近代的風景画』への確かな歩みが現れています。その神髄は、彼の弟子である山元春挙らへと引き継がれてゆき、近代京都画壇の基礎を築いたのです。